大正生まれの享年91歳。
母が私を出産する時、兄が預けけられたのが叔母の家。
なので、叔母はあっちのママだからあっちママちゃんと呼ぶようになった。
夏休みになると日立電鉄線の茂宮駅で降りて坂を登って泊まりに行ったりもした。
告別式では、久しぶりの従兄弟との再会で不謹慎ながら明るい控え室だった。
帰りの高速道路で一人竹内まりやの いのちの歌をしみじみ聞きながら
キレイな夕焼け空に向かい帰っていきました。
いのちの歌特設サイトはこちら
http://wmg.jp/mariya/spn/

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2012年 01月 29日
今日は、叔母の告別式で日立へ。
大正生まれの享年91歳。 母が私を出産する時、兄が預けけられたのが叔母の家。 なので、叔母はあっちのママだからあっちママちゃんと呼ぶようになった。 夏休みになると日立電鉄線の茂宮駅で降りて坂を登って泊まりに行ったりもした。 告別式では、久しぶりの従兄弟との再会で不謹慎ながら明るい控え室だった。 帰りの高速道路で一人竹内まりやの いのちの歌をしみじみ聞きながら キレイな夕焼け空に向かい帰っていきました。 いのちの歌特設サイトはこちら http://wmg.jp/mariya/spn/ ![]() ▲
by msj19
| 2012-01-29 22:34
| 昭和回顧
2009年 07月 12日
Levi's501と言えばもう一つのこだわりは
コンバースオールスター。ハイカットも良いのですがローカットのブラックはジーンズと合います。 で、今日栃木の靴屋さんのバーゲンで見かけて即購入。2,980円で買えました。 ![]() いつまでも変わらないモノがあります。 ▲
by msj19
| 2009-07-12 22:45
| 昭和回顧
2007年 05月 27日
![]() 先日の同窓会で会ったT君が、学生時代の写真をスキャンしたものをビデオからTVで再生してくれました。昨日写真のファイルを3つに分けてメールで送ってくれました。 どの写真も思い出深いもので、あまり自分が写っていないのは、シャッターを押していたことが多かったからだと思います。 この写真は、OBのワーゲンを借りて、鶏頂山へスキー行った時のものです。一番右で頭を下げているO君。スキー中に車のキーを落としてしまい、帰れなくなるところでした。 幸い、さんざん探した挙句、車のキーはフロントに届いていて、無事帰宅できました。あの時、キーが出てこなかったらどうなっていたのか・・・・。 ▲
by msj19
| 2007-05-27 08:59
| 昭和回顧
2007年 01月 11日
「娘に語るお父さんの歴史」
![]() Dr.Suzukiさんおすすめの重松清さんの作品。昭和38年生まれの私としては自分のことのようにすらすら読めました。正月休み中ちょこちょこ探していましたが、見つけたのは先週の土曜日のことでした。 会社の休憩時間に少しずつ読んでいましたが、今日読み終えました。なぜか最後は一人休憩所でうるうるしてしまいました。自分の子供たちの未来は、なかなか見えてきませんが、「君たちの幸せの未来の為に僕達は親としてがんばっているんだよ。」と独り言。 Suzukiさんありがとね。 ▲
by msj19
| 2007-01-11 21:52
| 昭和回顧
2006年 08月 30日
徳山高専悲しいニュースが流れている。僕は、茨城の高専出身だ。日常生活の中で、高専という単語を聞く機会がないので、その言葉だけで学生時代の思い出がよみがえる。
16歳から20歳という、人生の中で一番多感な時期に、過ごした学生時代は、ほったらかしにされたような自由があった。制服は無い、授業は一科目100分授業。教授の都合が悪いと休講になり、海に行ったり、喫茶店でだべったり。赤点(50点未満)が1科目でもあると留年。 合宿所が構内にあるので、ことあるたびに合宿をした。写真部の合宿、応援団の合宿、文化祭実行委員会の合宿。夏の合宿では、夜のプールでこっそり素っ裸で泳いだりもした。文化祭では、2日に及ぶ企画が終了すると後夜祭で、実行委員は、11月の池に落とされ、青春を味わった。 生涯の友達をつくり、アルバイトをして、バイクに乗り、自動車免許を取り、酒を覚え、キャンプをしたり、煙草を覚えたり、ファッションにめざたり、学校や人生に失望したり、修学旅行で二日酔いになったり、テスト前には友達の家に集まり徹夜勉強、5年生になると卒研で毎晩8時過ぎまで実験、そして就職が決まったり大学編入が決まったりして、卒業した。 卒業時には、40名いたクラスメートが30名になっていた。国立の学校だったので、卒業できないと国家の損失だと大げさなことをいう教授もいた。 東京に就職が決まった僕は、出発が早い方だったので、クラスメートが駅に見送りにきてくれた。 もう20年以上の昔の話だが、やはり高専時代が僕の青春だったと思える。そんな貴重な時間を、無にしてほしくないと思った。 ~BGMは、The way we were. ![]() ▲
by msj19
| 2006-08-30 20:54
| 昭和回顧
2006年 06月 25日
昨日の土曜日は、父の月命日ということもあり実家の日立市へ母が収穫したじゃがいもをもらいに出掛けた。
板倉-藤岡-小山-結城-下館-真岡-笠間-茂木-緒川-常陸大宮-常陸太田-日立市と、高速道路を利用せず一般道を利用して3時間半ぐらいのドライブとなった。 実家に寄る前に、ちょっと常陸多賀の街を散策。子供のころから通っていたおもちゃやさんのかざみは、健在だった。 ![]() 普段は、おもちゃを買うほどのお小遣いの持ち合わせのないボクたちは、お金がなくとも土曜日の午後や日曜日には、よく通ったものだ。サンタの来ることがなかったボクは、正月のお年玉で、好きなおもちゃを買うのが楽しみだった。魚雷船ゲーム・消える魔球付きの野球盤・サッカーゲーム(コーナーキック付きのは買えなかった)・電子ブロック・ブーブークッション・人生ゲーム・笑い袋・モデルガン・サンダーバードのプラモデル・タイガーマスク人形・・・・。あこがれのおもちゃは、全部手に入れられことはなかったものの、他の子の持っているおもちゃは不思議と欲しくなり、やっとの思いで買えたおもちゃも、手に入れるとすぐに飽きてしまうものだった。 ![]() ちょっとお城を意識してデザインされた建物は、ボクたちの夢が詰まったおもちゃ天国だった。 かざみの裏の通りをちょっと行くとかどに、アイスキャンディーを売っていたかどやがあった。ここもまた健在で、建物も昔のままで、お菓子を陳列してる棚も昔のままのようだ。アイスキャンディーはやめてしまったようでソフトクリームに代わったようだ。 ![]() 常陸多賀の街から、母校河原子中学校に寄ってみた。校門からみる校舎も体育館も昔のままだった。車でゆっくりと学校のまわりの道をアイドリング走行しながら、あそこが、音楽室・理科室・技術室とあの頃と変わらない様子だった。 ![]() 休み時間に走り回っていた中庭や、2階のテラス。校舎を見てるとその頃の自分が思い浮かびちょっとセンチメンタルな気分になった。 ▲
by msj19
| 2006-06-25 21:05
| 昭和回顧
2006年 06月 15日
小学校3年の時、老朽化した木造2階建て校舎建替えのため、ボクらはプレハブ校舎で授業を受けた。夏の熱さ対策で、屋根の上には、ブラスチックの水道管に穴をあけたシャワーが取り付けてあった。そのときの担任の先生は、国府田(コウダ)克彦先生という男の若い新婚の男の先生だった。先生は、理科の先生で、女子にも男子にも人気があった。ボクが理科を好きになったのも先生の影響があったと思う。
持ち物検査みたいのがあって、ハンカチと爪の長さを定規を持った先生が席の順番に見回ってくる。爪の長いコは、容赦無く定規で両手を叩かれた。ボクは、だらしのないほうのハナタレ坊主だったので、爪は随分伸びていた。そこで、ハナタレ坊主のボクは、工作用に持っていたハサミを使い、先生が回ってくる前に、右手に持ったハサミで左手の爪を切ることが出来た。 ところが、利き腕ではない左手で右手の爪を切ることはできず先生が回ってきた。先生は、両手を見て、ニヤリと笑い定規で、「時間切れだな」と言って爪の伸びた右手だけを叩いた。いまは、体罰だの何だのでそんなことをする先生はいないだろう。でも、そん出来事でボクはますます先生に好感をもてた。 仲の良かったクラスの友達と夏には休日に隣町の市民プールに行く計画を立て先生を誘うと、OKしてくれてつきあってくれた。厳しいところもあったけど、生徒思いの先生だった。赤ちゃんが生まれてボクたちは、お祝いとして、50円ずつ出しあい、街のおもちゃ屋かざみで買ったおもちゃを持って先生の家に遊びに行ったりもした。動き出したおもちゃを見て赤ちゃんが大泣きだったのでボクらはちょっと計算違いだった結果に顔を見合わせた。奥さんの手作りの食事をごちそうなったのだが、ボクは出されたとろろ昆布の汁をこぼしてしまった苦い記憶しか残ってなく、何を食べたか覚えていないのが残念だ。 4年生になると、国府田先生は、水戸の茨城大学付属小学校に転勤になりクラスが替えで仲のよい友達ともバラバラになった。そこで、先生との思い出は終わった。 30年以上経過した現在、ふとその頃のことを思い出しGoogleで、国府田克彦と検索すると1つの検索結果にめぐり会えた。検索した結果は、茨城教育委員会の中の県内の学校と校長先生の氏名が記されていた。残念ながらファイルは、01年のものだったが、そこには東海村の村松小学校校長に国府田克彦の名前があった。エクセルのファイルを見て感動してうるうるきてしまったのは、初めてのことだった。 校長先生にまでなったんだね。コウダせんせい。おめでとう。 ボクの中では、若いコウダせんせいのイメージで止まっている。 そこから先を調べるのはちょっと勇気が要るのでもう少し時間が経ってからにしようと思う。 その前に、仲の良かったノボル・マサノリ・セイジュに連絡してみなければ。 ▲
by msj19
| 2006-06-15 19:40
| 昭和回顧
2006年 06月 11日
重松清さんやリリー・フランキーさんの小説、そして三丁目の夕日を見て、幼い頃の記憶を記録に残してみたい、昭和回顧というカテゴリーを作ってみました。
ボクは、茨城県の日立市というところで生まれ高専を卒業して就職するまでそこで育った。日立市というところは、日立製作所発祥の地であるため、日立製作所の街であたった。市民のほとんどは、日立製作所に勤めている人から、下請け、孫受けまで何らかのかたちで、かかわりをもっていた。オトナたちは、日立製作所のことをニッセイと略して呼んでいた。 茨城の常磐線下りで、水戸を過ぎると、勝田・佐和・東海・大甕(おおみか)・常陸多賀・日立・小木津までの各駅には、必ず日立製作所の工場があった。ボクにとってはそれがあたりまえの世界であって、外の世界を実感するようになってから、特殊な地域だったんだなぁと思えた。 少年時代小学校に上がる前の記憶は、あまり多くはない。幼稚園には、行けなかった。それは、経済的な理由ではなく、単に定員が多くてくじ引きで入れなかったようだ。確かにそのころの日立の街は景気が良く、人口は増え、入学した小学校は1年生で15組まであったと思う。幼稚園は、園児をを受け入れる枠を計画的に拡大できなかったようである。 そういうことで、小学校に上がる前は、10円、20円の小遣いをもらって、西野か森という駄菓子屋に通ったり、肉屋で5円のコロッケを買っておやつ代わりにしたものだった。残り5円で画用紙を買って、絵を書いたりするのも好きだった。母は、家で内職をしたりしていたので、寂しい思いはしなくて済んだようである。 3歳ぐらいの頃にオート三輪に轢かれて病院に運ばれたことがあるそうだが、その記憶は無い。救急車に乗せられると、死んじゃう死んじゃうと2歳年上の兄が泣いたそうだが、僕は、車に轢かれたといっても、タイヤで踏まれることもなく、スルーで、怪我は足の指の爪が一つ剥がれただけだったらしい。 ▲
by msj19
| 2006-06-11 10:58
| 昭和回顧
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