昭和回顧 プロローグ
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ボクは、茨城県の日立市というところで生まれ高専を卒業して就職するまでそこで育った。日立市というところは、日立製作所発祥の地であるため、日立製作所の街であたった。市民のほとんどは、日立製作所に勤めている人から、下請け、孫受けまで何らかのかたちで、かかわりをもっていた。オトナたちは、日立製作所のことをニッセイと略して呼んでいた。
茨城の常磐線下りで、水戸を過ぎると、勝田・佐和・東海・大甕(おおみか)・常陸多賀・日立・小木津までの各駅には、必ず日立製作所の工場があった。ボクにとってはそれがあたりまえの世界であって、外の世界を実感するようになってから、特殊な地域だったんだなぁと思えた。
少年時代小学校に上がる前の記憶は、あまり多くはない。幼稚園には、行けなかった。それは、経済的な理由ではなく、単に定員が多くてくじ引きで入れなかったようだ。確かにそのころの日立の街は景気が良く、人口は増え、入学した小学校は1年生で15組まであったと思う。幼稚園は、園児をを受け入れる枠を計画的に拡大できなかったようである。
そういうことで、小学校に上がる前は、10円、20円の小遣いをもらって、西野か森という駄菓子屋に通ったり、肉屋で5円のコロッケを買っておやつ代わりにしたものだった。残り5円で画用紙を買って、絵を書いたりするのも好きだった。母は、家で内職をしたりしていたので、寂しい思いはしなくて済んだようである。
3歳ぐらいの頃にオート三輪に轢かれて病院に運ばれたことがあるそうだが、その記憶は無い。救急車に乗せられると、死んじゃう死んじゃうと2歳年上の兄が泣いたそうだが、僕は、車に轢かれたといっても、タイヤで踏まれることもなく、スルーで、怪我は足の指の爪が一つ剥がれただけだったらしい。